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新潮社:小澤征爾さんと、音楽について話をする/村上春樹

小澤征爾さんと、音楽について話をする
(あらすじ)
指揮者はタクトを振るように語り、小説家は心の響きを聴くように書きとめる。「俺これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」。ベートーヴェン・ピアノ協奏曲第三番、復活のカーネギー・ホール、六〇年代の軌跡、そして次代の演奏家達へ。「良き音楽」を求め耳を澄ませる小説家に、マエストロは率直に自らの言葉を語った。東京・ハワイ・スイスで、村上春樹が問い、書き起こした、一年に及ぶロング・インタビュー。

answer.――― 75 点

小澤征爾と村上春樹、“世界の”を冠する日本を代表する二人が居間にテープレコーダーを置いて、音楽を聴きながら、腹が減ればモグモグしながら語り合い、そうして、文字に興して出版すれば、きっと売れちゃう!で、出版してみたら本当に売れちゃったm9(春^Д^樹)プギャー!という本作。そんなm9(春^Д^樹)プギャー!は既定路線にもこの春にCD化と相成り、―――なんと!た、たった¥3000でユニバーサル・ミュージックより「『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック」なんてストレートに題されてリリース!!とパワーコードを掻き鳴らす感じで揶揄させて頂いたが、個人的に定価¥1680は値段的に「買い」と言えないまでも、評価の通り、¥150は出しても良いくらいに興味深く読めた一冊。本作の本線は、小澤征爾が関わる録音当時の思い出を語るというもの。音楽の内容そのものよりも、その録音背景を語るところが裏話的で面白い。そういう意味ではゴシップな面が強く、小澤征爾の名で手に取った方々にとってはともすると俗で、聞き手である村上春樹に不満を向けるのも致し方ない印象。そう、本作はやはり村上春樹が主役であり、彼が本作冒頭で「マエストロの言葉を誰かが残すべき!それはボクしかいない!」と書いた使命感はやはり建前で、自分の知りたいことに掴みに行く行間こそ必読である。“世界の”村上春樹が“世界の” 小澤征爾から知りたかったこと、それはすなわち、―――文章も音楽も「同じ」はず(!)である。これが面白い。「音楽」を介している安心感からか、無防備なまでに己の筆、創作の「感覚」を語っていく“マエストロ”村上春樹。(注釈されていないが)おそらくジェスチャーを交えながら、「垂直」なり「リズム」なりの己の抽象的な創作論を語ったことだろう。書き手による己の筆の感覚を語る本が果たしてあるだろうか? 否、無い。故に、貴重な一作。もちろん、専門的な部分を望まなければ、音楽本としても楽しめる。村上春樹はいわゆるレコードマニアで、適度に譜面を読める程度には精通しているため、聴き専門、クラシック初心者には実際、どんな音楽なのか聴きたくなる紹介をする。図書館にあるならば借りて読んで損は無いだろう。楽しめました。

新潮社:小澤征爾さんと、音楽について話をする/村上春樹 (2011)

category: ま行の作家

tag: OPEN 村上春樹 70点

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第7回本屋大賞 10位:1Q84/村上春樹

1984.jpg
1.a novel BOOK 1<4月―6月>
2.a novel BOOK 2<7月―9月>
3.a novel BOOK 3<10月―12月>

answer.――― 78 点

ある程度のキャリアを積んだ作家は、これを挿しておけば良いだろう、という「逃げ」の手を持っている。村上春樹にとって、それは「ペニス」であり、「食事」だ。序盤に勢いをつけたいとき、あるいは、場面の停滞を感じ取ると、村上春樹はそれらに関する言及、事象を挿し込んでくる。ジョージ・オーウェルの代表作『1984年』とアニメ映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のフュージョンを試みた表題が何とも「らしい」、Now loading……なポップ・カルチャーの申し子・村上春樹の近過去小説である本作「1Q84」でも、己で使い古したそんな「逃げ」の手を早々に挿し込んでさっそく呆れさせてくれたが、―――ところがどっこい!単行本ならば全3巻、文庫本ならば全6巻という、まさしく!の大作な本作の第1部「a novel BOOK 1<4月―6月>」は、ファンタジー作家としての彼の素養はやはり世界レベルなのだと絶句する他ない《スケール》を披露してくれている。「1Q84」なんて登場人物自身が目の前の世界を命名するウルトラQな展開にとどめ刺す終盤も終盤、「リトルピープル」の出現には、……こ、こんなもの、絶対に処理出来るわけがないっ!そう誰もが確信しながらも、しかし次巻に手を伸ばさずにはいられなかったことだろう。―――大衆は、小さな嘘より大きな嘘に騙されやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でも吐くが、大きな嘘は怖くて吐けないからだ。なんてことをかのハーケンクロイツの総統様が仰られたようだが、まさに、である。もっとも、買ってまで読む価値があるのはこの第1部、あるいは「巻き込まれた」第2部までなのはご存知の通りだ。所詮、小さかろうが大きかろうが、嘘は嘘なのである。物語は美人暗殺者「青豆」、イケメン・ライター「天吾」の愛の交錯劇だったのに、《拡げた》世界を処理出来ないから第3部よりいきなりブサイクな脇役・牛河を主役に配して、本作の罪を背負う「生贄」にする展開は無責任と云わざるを得ない。文学の蓑を取り上げれば、村上春樹は話を終わらせられない事実しか残らない。きっと、かの『ノルウェイの森』の電話ボックスの場面よろしく、―――僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?牛河、ちょっと死んでくれ。と殺しちゃったんだと思う。書き流してしまったが、暗殺、ゴーストライターからカルト宗教、児童虐待、二つの月、リトルピープル……と並べられるマクロにミクロにスパイシーな要素を兼ね備えた本作の第1部は、我こそは世界レベルの……!と嘯く諸氏の才能を量る絶好のテキストになることは必至。《スケール》を持つ作家は、それだけで「世界」に挑める。良くも悪くも、村上春樹の本領を発揮した欠陥的大作。全3部、合わせてのレヴューです。

第7回本屋大賞 10位:1Q84/村上春樹

category: ま行の作家

tag: OPEN 70点 村上春樹

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新潮文庫:海辺のカフカ/村上春樹

海辺のカフカ
(あらすじ)
「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」――15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。家を出るときに父の書斎から持ちだしたのは、現金だけじゃない。古いライター、折り畳み式のナイフ、ポケット・ライト、濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真……。

answer.――― 70 点

一言、引用し過ぎ!と切って捨てたい本作は、一見さんお断りなI'm Haruki Murakami!Say,Haruki?Yeah!Say,Murakami?Yeah!Say,yeah?Yeeeeaaaahhhh!な一作。ストーリーは自立を願う15歳の「僕」、戦時中のとある事件以来、記憶と読み書きの能力を全て失った老人ナカタさんの二視点で語られる……が、本作を読むにあたり、「楽しむために」絶対不可避と言わざるを得ないのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の既読前提。この前提が無いと、「僕」視点でのストーリーパートは退屈極まりないものとなる。困ったときのペニス頼み(今回はVer.包皮)、セックス描写も挿し込んでくるが、それでさえ誤魔化せないお手上げの退屈さは、著者自身も「物語の解釈は個人個人で……」と口を閉ざし、読み手に深淵なものとして扱うように推奨している。上述で「引用し過ぎ!」と唾棄したように、事あるごとに漱石やらルソーやらの偉人の作品、言葉を取り出し、……とりあえず、取り上げ方に一貫性を感じないのが最大の問題。仮にも“世界の”の冠をかぶっているんだから時代性くらいは縛って欲しかった。村上春樹が(なんちゃって!)インテリゲンチャに毛嫌いされるのは、登場人物を介した教唆的な節回しにあるように思うが、本作ではそれが爆発している印象。本作での「面白い」の免罪符は「猫と喋れる」老人ナカタさん視点に任されている。UFOに誘拐され、すべてを失ったと思わせる書き口、そこから自作世界「世界の終り」に繋げてくる辺りは斬新で、生半可な作家では出来ないスケール大きな芸当だ。が、終盤はその自作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の読み込みを当て込んだ不親切なもので、一作品として評価する場合、これを誉めるわけにはいかない。あるいは、そういう作家……自作「全」作品を繋げる作家を目指しているのかもしれないが、にしても、色々がお粗末だ。著者自身がRadioheadを聞き込んでいた時期の作品なので、本作中でも出された『Kid A』を真似て、このようなパッチワーク的創作をしたのかもしれない。クラシックを始めとした音楽ネタもいよいよ趣味が高じて円熟し、絶好調!となって著者が随所でズイッ……と語って来る部分も散見出来る本作は、とりあえず、ファン以外にはお薦め出来ない一作であることは確かだ。上巻/下巻、合わせてのレヴューです。

新潮文庫:海辺のカフカ/村上春樹 (2002)

category: ま行の作家

tag: OPEN 村上春樹 70点

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新潮文庫:ねじまき鳥クロニクル/村上春樹

ねじまき鳥クロニクル
第1部 泥棒かささぎ編
第2部 予言する鳥編
第3部 鳥刺し男編

answer.――― 89 点

「最初のシーンを読んでいると、パスタを食べたくなる」―――多分にブラフにせよ、読み手にそんなことを言わしめる冒頭を持つ本作は、ライトノベルに退屈を覚え始めた貴族の諸氏(ライトノベラー)に新たな地平を見せる純文学ならぬ準文学、ライトノベルならぬ準ライトノベルな快作。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の稿にて、―――村上春樹はライトノベル作家だ。なる一文を提示させてもらったが、ここで改めてその一文の補足をさせて貰おう。今でこそ「パンツ」と「裸」の披露はライトノベル世界における最高法規として遵守を命じられているが、90年代において「パンツ」と「裸」よりもライトノベル「らしさ」を担っていた要素に「食事」場面の挿入があったのは間違いない。それらの場面は目先のパンツを前に省略化の傾向があるが、今現在を以っても、……推して知るべし!の効能を持つ。ライトノベルを何故、読むのか?ライトノベルを何故、読みたいのか?書き手はよく考えてみて欲しい。編集部は三大欲求である「性欲」に焦点に当てているだけに過ぎないのだ。温故知新!ワナビーよ、登場人物たちにメシを食わせてみよ!されば、扉は開かれん!さて、文学作家の仮面をかぶるタキシード仮面様こと天才ライトノベル作家・村上春樹が放つ本作は、突然の妻の失踪から始まるファンタジックなミステリー。物語は突然、始まってこそ面白い―――村上春樹はその神髄をよく理解している。謎めく妻の理由無き失踪から始まり、不貞を働いていた予感、それでもどこか純愛を匂わせ、(読み手に)嫉妬を煽る―――現代が舞台、なのにファンタジー。主人公は朴訥に無職、なのにクールな探偵のように静かに動き回るストーリー展開は秀逸だ。女性ライトノベラーが強く己を投影するだろう笠原メイは作中の実質MVPで、書き手は彼女を解体することで知り得ることは多いだろう。主人公を井戸に放置する手際は、もはや神業だ。評論では戦争を扱ったことがクローズアップされるが、そこが物語の進行上で一番の蛇足に感じるも(野暮ったいし、読ませようという工夫も放棄している)、「文学」観点での目くらましには必要不可欠な必要悪だったと云える。《ねじまき鳥》というマスコットまで用意する手の込みようは、『ノルウェイの森』で終わらない著者の意志表示にも思える。とどのつまり、キャッチーの一言に尽きる一作。「文学」「大衆小説」「ライトノベル」の三者が組み合う様を楽しみましょう。きっと、女の子が中学生時点でこれを読んじゃうと(……あ、私って笠原メイだ!)って思い込んで、そこからハルキストになっちゃうのよねえ……。第1部、第2部、第3部の全3巻を合わせたレヴューです。

新潮文庫:ねじまき鳥クロニクル/村上春樹 (1995)

category: ま行の作家

tag: OPEN 村上春樹 80点

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講談社文庫:ノルウェイの森/村上春樹

ノルウェイの森
(あらすじ)
37歳の僕は、ハンブルク空港に到着した飛行機のBGMでビートルズの「ノルウェーの森」を聴き、激しい混乱を覚えた。そして18年前(1968年)の学生時代のことを回想した。限りない喪失と再生を描き、新境地を拓いた長編小説。

answer.――― 85 点

緑と赤のシンプル極まりない装丁、「100%の恋愛小説」なるキャッチコピー、単行本&文庫本を合わせた発行部数800万部超……そこに日本を代表する“旅人”中田英寿が遠征の機中で読んで「死にたくなった」という眉唾なエピソードさえある本作は、村上春樹と云えば、……の代表作。村上春樹は兎角、賛否が分かれる作家ではあるが、売れている分だけ本作に対する風当たりの強さは972hPa、もはや爆弾低気圧を思わせるものがある。古典を愛する(なんちゃって!)インテリゲンチャに特にその傾向が見られ、すべてを否定する様はヒステリーそのもの。それ自体を一種の老害と扱っても良いかもしれない。本作における特徴に「よく遊び、よく寝る」ならぬ「よく死に、よくセックスする」要素が挙げられると思うが、生死の営みはなるほど、強い「記号」である。読み手はその「記号」にエンターテイメントを必要十分以上に感じ、村上春樹を彼ら大好きの古典作家以上の存在に奉るのが気に食わないのも理解出来なくもない……が、読み手ではなく、書き手の視点に立ったとき、本作は村上春樹を再考するに相応しい作品となっている。村上春樹は巷で糾弾されるほど文章は下手ではない。まともに書こうと思えばまともに書けるだろう。ただ、それをしようとしないだけだ。まともに書く―――事象を通して描きたいことを描く。本作にはそんな珠玉の場面がある、給水塔で蛍を解き放つ場面だ。この場面の凄味は、この場面だけ切り離しても成り立つところにある。何を言っているわけではない、だが、何を言っているのかが分かる。特別なことを表しているわけではない、だが、何を表しているのかが理解出来る。『ノルウェイの森』のストーリーがここにある事実。文章技巧という観点では極致の場面と言える。ここを称えずして、何がインテリゲンチャだ。お前ら、「物語」しか読んでねえから「文章」読めねえんだよ。もっとも、私の中で一番忘れらない本作の論評は大学時代の先輩の「『ノルウェイの森』って三十半ばのオバサンとセックスする話だろ?」だった。それで、本当の中庸の人の意見の神髄に触れることが出来たことを付け加えておく。本作を読んで、このまとめ方が出来る人は天賦の才があると思う。是非、未読の方は私の先輩と同じようにまとめられるのか試して頂きたい。上巻/下巻、合わせてのレヴューです。

講談社文庫:ノルウェイの森/村上春樹 (1987)

category: ま行の作家

tag: OPEN 村上春樹 80点

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新潮文庫:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹

世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
(あらすじ)
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行して織りなす、村上春樹の不思議の国。

answer.――― 76 点

―――村上春樹はライトノベル作家だ。という私のなかにあったいつからかの予感を現実に証明してくれた一作であり、村上春樹自身にとって実質、「初」の長編小説。さて、冒頭でいつからかの予感と濁したものの、いつからなのかは記憶している。私の村上春樹は『ねじまき鳥クロニコル』に始まる。そして、同作を薦めてきた陰気な女の子、ロックスターを地で行った高校の同級生から「最初のシーンを読んでいると、パスタを食べたくなる」と共にどっかの評論を鵜呑んだエピソードを聞かされ、(……ライトノベルみたいだな)と思ったことに端を発する。そして、パスタは全然食べたくならなかったが、そこは置いて―――本作は表題が暗示するように、「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の二部構成で、章ごとに世界観が入れ替わる。それぞれの章は村上春樹の代名詞とも云える「僕」視点、ハードボイルドな「私」視点で描かれているのも特徴。一見と言わず、まったく無関係に感じて苛立ちさえ抱く双方の世界が徐々に重なり合っていくのはそうと予想はしつつも圧巻で、出版から三十年を経ようという現在でも指折りと断じても構わないスケール感が溢れる。しかしながら、駄文が非常に多いのが難点。意図が不明な文章、描写が多く、後に語るように「リズムを意識して書いている」故の弊害が見て取れる。「私」視点は書き慣れてないためか特にそれが顕著で、作家としての甘えにも映った。実際、名も無き作家の作品として取り扱われれば、冒頭からの数頁で読まれない可能性が高いだろう。しかし、―――だ。この作品を受賞作、それも文学作品として扱うと、途端に評価は覆る。村上春樹とは何者なのか? 私は本稿の冒頭で、ライトノベル作家、と書いたが、それは揶揄でも何でもない。文学として読むならば、本作はあまりに面白過ぎるのだ。「人間を描く」文学はそもそも興味深いものであって、面白いものではない。読み手はそれを知っているからつまらないと決めつけて読む。しかし、本作では一角獣の骨やら「計算士」「記号士」なる職業、影を剥がれるやら「夢読み」なる職業に就くやらの、ファンタジーのど真ん中を行く。文学なのに、である。そして、本作が出版されたのは1985年、ライトノベルが「ライトノベル」と呼ばれ始めたのが90年代初頭、つまりはそういうことなのだ。また、村上春樹の筆の特徴に、困ったときのペニス頼み、困ったときの食事頼みがあることを挙げておきたい。前者は文学的素養から、後者はライトノベル的素養からのアプローチで、筆の拙さゆえに物語が停滞すると確信犯的に打ってくるのが(笑)だ。上巻/下巻、合わせてのレヴューです。

新潮文庫:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹 (1985)

category: ま行の作家

tag: OPEN 村上春樹 70点

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講談社文庫:羊をめぐる冒険/村上春樹

羊をめぐる冒険
(あらすじ)
1978年9月。「僕」の新しい「ガール・フレンド」は、「僕」に不思議な予言を告げる。「羊をめぐる冒険」が始まると。「僕」が「相棒」と共同経営している広告代理店に、大物右翼「先生」の秘書が現われた。彼は「特別な羊」を探せと、「僕」を脅迫する。その「羊」は、「僕」の会社で編集したPR誌上の風景写真に、偶然 写っていたのだった。

answer.――― 83 点
文学の薫りをまとう村上春樹の初期三部作、その最後を飾る大作。後に「僕と鼠もの」シリーズとしての結末をつける『ダンス・ダンス・ダンス』が発表されるが、一般的な見解としてのシリーズの完結は本作で迎えられる。文庫本・上下巻に分けてのリリースは商業的な意味合いもあるだろうが、それでも前二作と比してボリューム感満載の文章量を誇る事実を持つ本作は作中、不必要なまでに比喩を施し、あたかもと言わず、歴然とした村上春樹流の比喩の見本市―――文章表現への挑戦が伺える一作となっている。面白い比喩とは何か? この問いへ誰でも出来る簡潔な答えを出すならば、「事実」と「擬人」を並べることだと思う。例えば、「電池が切れて」「眠っている」ような時計、である。これをもう一歩進めるならば、それだけで《物語》を想起させる比喩―――例えば、《開始のゴング》の叩き方を忘れた時計、と私は考える。もちろん、人によって千差万別、正解は無限に等しい。それでも、自分の中でだけでも答えを出せなければ、外へ向けて【挑戦】は出来ない。本作において面白い比喩というものに対するイメージが掴めているからこそ、村上春樹はこうも大胆に披露出来るのだ。彼の比喩表現の核、それは「縮尺」と「食べ物」だ。後者の核に関しては、ライトノベルへと通じるものを見る……が、それはまた、別の話@王様のレストラン。表題の通り、ストーリーは一枚の写真に写った羊をめぐり、「僕」が会社を止め、大物政治家やらマフィア、ついには専用の続編まで編まれる人気キャラクター・羊男に辿り着くまでを描く。シリーズと謳いながら前二作と明確に違うのは、羊男のように、完全にファンタジーへと踏み出している点。それで違和感が無いのは、―――というよりそこを糾弾/追求されないのは、村上春樹が文学作家と言うよりも、そもそも、超級のファンタジー作家であることを見落とされているからだろう。……いや、マジで突っ込もうよ!羊男が出てきて、何で皆、受け入れてるのさ!?文学という石仮面をつけたまま、いよいよ作家としてのスタンドプレイに奔り始めた本当の意味での分岐点な一作。そこを抜きにしても、技巧ではない、センスであつらえた比喩表現を体感出来るので自分なりに盗んでみましょう。

講談社文庫:羊をめぐる冒険/村上春樹 (1982)

category: ま行の作家

tag: OPEN 80点 村上春樹 「僕と鼠もの」シリーズ

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講談社文庫:1973年のピンボール/村上春樹

1973年のピンボール
(あらすじ)
さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との“僕”の日々。女の温もりに沈む“鼠”の渇き。やがて来る一つの季節の終り―デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く三部作のうち、大いなる予感に満ちた第二弾。

answer.――― 74 点
デビュー作「風の歌を聴け」からの続編、俗に言う「僕と鼠もの」シリーズの第二弾。1970年の前作から時を置いて、1973年9月に始まり、11月に終わる、「僕」の物語とその友人「鼠」の物語。Wikipediaの記述を参考にすれば、村上春樹的にはリアリズムを書こうとして挫折し、「鼠」の章のみリアリズムで書いた、とのことだが、個人的には特段言及することの無い作品。前作に引き続き、登場人物たちの受け流すようなやり取りが印象的で、そこに見分けのつかない双子の女の子と同棲したり、のゴシップな生活感が「So Cool!」。敢えて前作と比するならば、どこを探しても見つからない―――そんな影差すリアリズムがそこかしこに確かに散見出来る。しかしながら、デビュー作である『風の歌を聴け』、人気作『羊をめぐる冒険』の間に挟まれた場繋ぎ的な印象は拭えない。単独で成立出来ないという点でやはり弱い作品。表題は大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディとのこと。

講談社文庫:1973年のピンボール/村上春樹 (1980)

category: ま行の作家

tag: OPEN 70点 村上春樹 「僕と鼠もの」シリーズ

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講談社文庫:風の歌を聴け/村上春樹

風の歌を聴け
(あらすじ)
一九七〇年の夏、海辺の街に帰省した“僕”は、友人の“鼠”とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、“僕”の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。

answer.――― 85 点
大江健三郎以来のノーベル文学賞の受賞が事実上の既定ラインとさえなっている“世界の”の冠をかぶる村上と云えば村上春樹、その第22回群像新人文学賞を受賞した処女作。一言、―――熱い!おそらく、村上春樹の作品中随一の、あるいは唯一の熱がここに込められている。村上春樹というと、提示される題材を「やれやれ」と右から左に放り投げ、頁に余白を導いていく文章が印象的で、それを時間とノルマに追われる現代社会に「So Cool!」と歓迎されているのだと思うが、本作における文章は導いた余白に向けて「ここには何も無い(……いや、本当に何も無いのか?)」と第三者に否定を求める、そんな熱さが込められている。本作以降の作品群の余白には「ここには無い、……何も無い」と単にニヒルな意味以外を(少なくとも私には)感じることが出来ず、以降の作品で人気を獲得していくことを鑑みれば、そのスタイルこそが本来の春樹節、ハルキストたちの熱狂の源なのだろうが、それだけに処女作ならではの異色の輝きを私は本作に見い出してしまう。1970年21歳の時の8/8から8/26までの19日間の物語、という体で夜な夜な散文的に綴ったらしい制作背景からか、良くも悪くも随所に豊富なアイディアが盛り込まれている。取り上げるならば、「こんなのだ」とTシャツの絵を投げてきたところ、架空の作家デレク・ハートフィールドへのさもそれらしい言及の二点を挙げたい。前者はその投げやり加減をイラストの存在を前提に表現している点、後者はともすれば流れていくだけの話に注意を留める役割を担わせた点が素晴らしい。デレク・ハートフィールドに関しては、未だ存在しないと分かっているのに書店へ行けばその著作を探している私がいるお洒落酩酊な事実に刮目して頂きたい。何にせよ、―――熱い!と唸らせてくれるギラギラと照りつける灼熱の一作。個人的な意見だが、村上春樹はこの一作で筆を折って欲しかったな、と。後に初期三部作、「僕と鼠もの」シリーズと謳われる栄えある一作目でもある。

講談社文庫:風の歌を聴け/村上春樹 (1979)

category: ま行の作家

tag: OPEN 80点 村上春樹 「僕と鼠もの」シリーズ

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